公開日 2022年8月31日 最終更新日 2023年12月16日
「残された治療は心臓移植だけです」
心不全末期で、日々苦しい中で生きていた私でも、「心臓移植」という言葉が主治医の口から出たときは、とても驚きました。「えっ!?、私が心臓移植? そんなことまでしなくても…」と真剣に考えることを避けてしまいました。しかし、当然のことながら状態が良くなることはなく、私の心臓移植希望登録とVAD(補助人工心臓)装着は唐突にやってきました。
まったく準備ができていなかった私の戸惑いと、VAD装着後の身体と気持ちの変化を、今、心不全で苦しんでいる患者さん、「心臓移植」や「VAD」と言われ戸惑いを感じている患者さんやご家族の方にお伝えしたいと思います。何かの参考になれば幸いです。
執筆:tomo-yoshi
白血病からの薬剤性心筋症。2019年に植込み型補助人工心臓(VAD)HeartMate3を装着し、心臓移植待機中。VAD装着を機に転居した東海地方で近辺の観光を楽しむ。執筆記事一覧
【目次】
私が、心臓移植?心不全末期患者の最後の治療法
白血病治療のための抗がん剤の副作用で「薬剤性心筋症」となり20年、心不全の状態で長く生活していました。薬でも状態は変わらず、ペースメーカー(正式には、CRT-D「両心室ペーシング機能付き植込み型除細動器」)を入れても改善しない。「残された治療は心臓移植だけです」と言われてしまいました。
この時の選択肢は2つ。心不全が改善する見込みの薄い薬物治療をそのまま継続していくか、それとも積極的治療をするのか、というものです。
「心臓移植」と聞いて最初に頭に浮かんだのは、「生まれつき心臓疾患を持ち、他に手立てのないお子さんが海外渡航をして受けるもの」でした。白血病の時、骨髄バンクに登録しましたが、適合する人がいなかったこともあり、移植は「自分にはしょせん縁がないもの」という思い込みがあったのでしょう。そのときも「私が?あの心臓移植? イヤイヤ、そんな大それたことしなくても」としか思えず、真剣に考えることができませんでした。
しかも当時通院していた病院は、移植施設ではなく、そのような患者さんもいません。「心臓移植」なんて自分事としてまったく想像できませんでした。「心臓移植」を提案されてからしばらくすると主治医が交代しました。 新しい主治医は、心臓移植施設から派遣されてきた経験あるドクターでした。
そのドクターが着任して間もなく、このようなやり取りをしました。
医師「去年までできたのに、最近できなくなったことはありませんか?」
私「最近…。そう言えば、洗濯物を干す時に、上を見上げているとフラフラするし、腕を上げているだけで辛い。お腹が膨れて食べられないし、夜はお腹が張って気持ち悪くて眠れない…」
医師「そうやって、年々できないことが増えていきます。心臓病とはそういうことです。移植登録するにも検査があって、今の状態では○○の数値が悪いので、もしかしたら登録できないかもしれません。まずは検査だけでも受けてみてはどうですか」
検査して、登録できなければ諦めもつく、ならば検査だけでも受けてみよう、とどちらかと言えば、「だめでもともと」「運試し」のような気持ちで、移植施設病院へ行きました。
職場には「ちょっと検査入院してきます。2週間程度で戻ります」とだけ言い残して。その後、再びその職場に戻ることはできなくなるとは露程にも思わずに…。
VAD(補助人工心臓)装着へ
検査の結果、やはり数値が悪くそのままでは登録できないとの診断で、改めて薬物治療に取り掛かりました。治療の効果があり移植適応審査をクリアできるところまでにはなりましたが、全身状態の悪化により「VADを入れるか、緩和ケアに移るか、1週間で決めてください」と決断を迫られる事態になりました。
私はここで改めて知ることになります。心臓移植の長い待機期間を維持するためにVAD(補助人工心臓)を装着すること。VADをつけるために様々な条件と制約があることを。
この間、私の症状はベッド上安静、1日の水分摂取量は700㏄に制限されるなど、過去の入院時には見られないほど、身体症状の改善がない、辛い状況でした。その状況下で、VADを入れるということ、心臓移植を受けるということ、移植後どうなるか等、少しずつ説明は受けたとは思いますが、残念ながら記憶に残っていません。その時は、その場をやり過ごすことで精一杯でした。
VAD装着の条件と制約の重さから、私は自分では「VADをつけるか否か」を決められず、夫に丸投げし、決めてもらいました。
精神科のドクターの問診でも、元気がなく、後ろ向きの発言ばかり。若い主治医にも「VADつけないとして、苦しまずに死ぬことはできるでしょうか?」なんてことを聞いていました。
それだけ、VAD装着の条件と制約にためらいがあったのです。
VAD装着後の環境と、身体と心の変化
細々した変化はたくさんあるのですが、ここでは、大きな変化を紹介します。
退院後の環境の変化
一番大きな変化は、「住む場所を変えた」ことです。
VAD装着の条件に、
- 条件①:24時間介助者(1名)と過ごすこと(1人禁止)
- 条件②:必要な介助者は2名。同じ屋根の下に住む、親族の者に限る
ということがあります。
元々住んでいた家は、夫と二人暮らしで、一緒に住める親族はいませんので、「条件②」を満たすことができません。夫と夫の母親に介助者になってもらうことをお願いし、退院後は夫の実家に住まわせてもらうことになりました。住むところが変わることで、VAD装着は夫実家の県にある移植施設病院に転院して行いました。
また仕事についても変化がありました。私のVAD植込みのための転居に伴い、夫は仕事を変えました。自営業の在宅ワークが主なので「条件①」はなんとかクリアできます。夫の転職については、なんと思い切ったことを、とか、転職はもったいないな、とか、私の都合で申し訳ない、と思うことしきりです。
私の仕事は、元々勤めていた会社で、在宅勤務で継続することができました。
社長とは、20年来の知り合いで、私の病気も知っていました。入院中から必要な連絡報告を行い、「VADのため引っ越しをせざるを得なく、職場には通えなくなる」ことも説明しました。退院後、社長との話し合いで「在宅勤務」形態で継続できるようになりました。現場で勤務することが必要な仕事でしたが、それ以外のデータ処理や企画等パソコンでできる仕事で継続しています。仕事内容の変化に伴い賃金形態も変わりました。
仕事の内容が変わり、量が減ったことは残念な事でもあります。しかし、それを逆手にとって、今までできなかった勉強や、新しく興味を持ったことに挑戦しています。このライターの仕事もその一つです。そうやって、経験の幅を広げていくことで、本業・副業にも何かしらの貢献ができるのではないかと思っています。
VAD装着者が職場復帰する場合は、職場の人に介助者になってもらう、という方法を取ります。
入院している間に、介助者になる人に勉強してもらいます。職場の介助者は同じフロア―にいる、そばにいる方が対象になると思います。介助者の役割は緊急時対応なのですから、一緒にいない人が介助者になっても意味がありません。通勤はどうするの?とか、休憩時はどうなるの?等、実際の運用については、私も経験がありませんので、病院で確かめてください。
私の場合は、社長がとても理解があり、「自分が介助者になる」とか、転居しなくていいように「経営している高齢者住宅に住み、ヘルパーに介助者になってもらうのはどうか」などの案を頂きました。しかし、「介助者は一つ屋根の下に住む親族のみ」という条件では、どうにもなりませんでした。
体と心の変化
ほとんど運動していなかったことと、VAD手術の前後1か月半以上を寝たきりで過ごしたことで、再び歩き出すときは大変でした。歩行器具につかまって歩き出し、「1往復できた」と言っては喜び、「明日はもう1往復追加する」という、亀にも確実に負けるスタートでした。
一般病棟に戻ってからは毎日リハビリです。自転車漕ぎのペダルの重さがどんどん増していくことに耐えられるだろうか、とため息をついた日もあります。リハビリ時間以外でも、病棟内を歩き回ったり、スクワットをしました。退院した翌日からウォーキングを日課にしました。そうしていれば日常生活に戻る事もあっという間です。
手術から2年半が経過した現在、装着VAD+予備のVADセット一式の計5㎏を自分で背負い、毎朝3㎞のウォーキングとスクワット等の自重筋トレが日課です。体重管理は厳しく、入院中の体重+1.5㎏の範囲で納めようと努力しています。
それもこれも、
- 心臓移植に向けて、身体を整えておく。最高の状態で移植手術を受ける
- 移植手術後に速やかに一般病棟に移る。速やかに退院する
- 移植後の拒絶反応や副作用などをできる限り軽減したり、免疫抑制剤を服用することによる二次がん(白血病経験者なので)を避けるため、負けない体を創る(医学的根拠はなし)
という目標を成し遂げたいからです。
VAD装着前、「どうせ長くは生きられない」と諦めていました。VAD装着によって動ける体を取り戻し、運動することで確実に結果がついてくることを知りました。「筋肉は裏切らない」というアレです。VADは動ける体を与えてくれましたが、その代わり「住む場所を自分で選べない」「一人で行動できない」という不自由がついてきました。
「この不自由な生活のままでは死ねない。自分の生活を取り戻したい。」そのために、今できることは何かを考え、地道に実行する。そのような覚悟をもって、「自分の生活を取り戻す」という希望を生きる意欲につなげています。
「覚悟なんて大げさな」と思われるかもしれませんが、強い意思で向かうことで気持ちを奮い立たせています。
VADがついたとしても、「心臓移植の順番が回ってくるのをただ待つだけ」の日々を送るのは、途方もなく長く、ゴールがまったく見えません。そういう日々を送るのはとてもつらい。「いつまで待てばいいの?」とイライラしたり、落ち込んだりすることは確実です。
自分ではどうにもできないことに思い悩むのはムダ。かえってストレスを貯めてしまい、白血病再発、なんてことになったらVADを入れた意味がありません。それよりも今できることに時を忘れるくらい夢中になったり、楽しんだりする。そうこうしていたら、「順番が回ってきた!」というのが理想です。
VADを入れられるのは、それだけで大きなチャンス。生きることを諦めない
実現できるかどうかわからない遠い望みであっても、未来に意欲と期待と希望を持つことができるということは、素晴らしいことです。
心臓移植が本当に実現するのか、いつできるのかは、誰にもわかりません。そのどうにもならないことを思い悩むのはやめて、今できる事にフォーカスする。「今やらないでいつやるの? 『いつか』はもう二度と来ないかもしれないよ」。そう言い聞かせて、毎年、新しいことを始めたり、次のステージへを目指して、できる範囲の活動をしています。
あのとき、VAD装着をためらい、「苦しまずに楽に死ねるだろうか」と問う情けない私に、若いドクターが話してくれた「ある患者さんのエピソード」が忘れられません。
「その患者さんは、元々スポーツマンで、身体も頑丈、仕事もバリバリやっていた。何らかの理由で心疾患を抱え、VADが必要になった。両親もすでに亡くなり、離婚しており、成人した子どももいるが介助者を頼める関係ではない。だからVAD装着ができない。緩和ケア病院にいくことになるだろう。VADを入れたくても入れられない人もいる。だから、VADを入れられるのであれば、諦めずに生きてほしい」と。
VAD装着前後を振り返って、改めて思う事は、私はとてもラッキーで、とても恵まれた環境にいる、ということです。そして、あの時諦めなくて本当に良かった、と思います。
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