明日が確約されない世界を生きるということ

公開日 2024年10月5日 最終更新日 2024年10月5日

はとらくは、心臓病への想いを持つ方にその想いを届ける場として活用いただくため、「はとらくで届けたい」と題して、寄稿文を募集しています。

今回は「はとらくで届けたい」第三弾として、単心室・肺高血圧症当事者であるMaanaさんに想いを寄稿いただきました!

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寄稿者:Maana

単心室・肺高血圧症。准看護師として働いたあと、社会保険労務士試験と地方公務員試験に合格。公務員として働くかたわら、ボランティアで障害や難病のある人の就労相談に乗っている。社労士として障害者雇用のサポートや情報発信をライフワークとしているTwitter: @Maana56332045

【目次】

20歳まで生きることはできないと言われた

私の病気の自己理解は小学校に入学する少し前から始まったことを覚えています。

「20歳まで生きることができないし、子どもも産むことはできないよ。でもこれからの人のために、手術したら学会で発表させてもらうね」

今であれば無神経な言動によるドクハラに該当するかもしれません。この言葉があったことにより、私は常に「終わり」を意識して過ごす人生です。

中学校3年生の時の三者面談でも「高校に行かない」と言い切り、担任を絶句させてしまいました。20歳まで生きることのできない人間が、高校に行っても無駄遣いだとの考えだったのです。もちろん理解されず周囲に押し切られる形で公立高校に進学しました。

今思うと、高校時代は「人生で一番遊んだ3年間」でした。クラスを超えた友人、部活動には入っていなかったが、教員を含め学校の理解があったため、毎日が楽しくあっという間でした。
高校卒業後、一度手術を行いながらも気がつけば20歳を超え、成人式も終わりました。

そこで困ってしまったのです。専門学校の卒業を間近にして、就職が決まっていないのは私だけというのが現実でした。

なぜなら「20歳より先の人生など考えたことがなかった」からです。

もしかしたら困っていたのは私ではなく、担任の先生だったかもしれません。准看護師試験にも合格して、大病院で勤務するのか、個人病院で勤務するのか、それとも全く違う道を進むのか、全く将来のビジョンを示されず、希望も言ってこない生徒。学校として、これほど扱いづらい生徒はいなかっただろうと、振り返ると思います。

卒業式前日になってようやく、個人病院の内定をもらい、卒業後はそこで勤務を始めました。

病院で勤務して2年ほど経ってから、突然、自分はいつまでこの仕事を続けられるのだろうかと考えるようになりました。なぜなら、自分には体力がないからです。先天性心疾患を持つと、学童期に運動制限をされている人が多いです。学童期の運動活動は、体力をつけるためだけでのものはなく、筋肉や骨の発達にも影響を与えることが知られています。

発達に適した時期に運動をしない結果、健康な人と比べて筋肉量が少ない、持久力がない、脂肪の燃焼が悪い(太りやすくなる)、精神的な影響(不安、抑うつ傾向)が出やすいといったデータがあります。年齢を重ねてから筋肉量を増やそうとしても、学童期ほどの成長スピードはありません。つまり、時間がかかるのです。病院というのは夜勤がなく、外来のみの業務であったとしても体力勝負です。

患者さんが目の前で倒れているのに自分が・・・とはなりません。職員は多くないので、お互い配慮し合って休みを取っています。子どもの学校行事や病児の看護、親の病院の付き添い、本人の都合など、有給に理由は不要だが申し訳なさげに申請している現状でした。そんな中で、突発的に休みを取らないように体調管理をしていました。しかし元となる体力や持久力がないため、年齢を重ねるにつれて、いくつまでこの仕事をできるだろうかと考えたのです。

今の医療技術では、これから先も年を重ねていくことになるでしょう。ただ生きていくだけではなく「何か」をやろうかな。初めて能動的に人生に向かって動いた時でした。

では今更どうやってリスタートをすればいいだろうか?初めは何も考えずに通信制の大学に入学しました。勉強をすることだけは得意なので新しいことを学ぶのは苦になりませんでした。通信制の大学なので普段は自宅で勉強し、科目履修テストのみ地元の会場大学に出向くのみなので体の負担は大きくはありません。1年が過ぎた頃、社会保険労務士という資格を知りました。
しかも受験資格は「学校教育法における大学において62単位以上の卒業単位を取得した者」だったのです。

これはあと1年で単位を取れば受験資格がある、と割り切り勉強に打ち込みました。単位を取得すると大学を中退しました。1年に1回の国家試験を受験し続け6回目にしてようやく社会保険労務士試験に合格したのです。

一つ想定外だったのは、国家試験になかなか合格できないからと社労士試験と平行して、公務員試験を受験していたのです。社労士試験に合格した年に、公務員試験にも合格してしまったのです。事務職など全く経験のない中、安定した給料と身分が保障されている公務員を選択しないのは、この時点で考えられませんでした。

そんな経緯で、地方公務員として働くことになりました。すでに年齢は30歳を超えていましたが、いわゆる「転職組」も多く馴染むのに時間はかかりませんでした。公務員で働くようになってから、巡り合わせによる「救い」もありました。

それは私が行った「フォンタン手術」の後輩が・・・「大学に進学し就職活動をしている」「他の障がいもある重複障害の子がフォンタン手術をして幼稚園に通っている」という情報が届いがこと。かつて医師に言われたことが、現実になっていた。私が「これからの人」のために「実験体として生きてきた証」であり「症例として後輩の役に立っている」ということに他ならないのです。

公務員は単身赴任者や一人暮らしが多いです。また長時間労働による不摂生も重なり、公務員住宅で急性の血管疾患などで孤独死している人がいるという話を聞いたことがあります。周囲は「あんなに元気だったのに」としか言いません。もちろん、次の日にやろうと考えていた仕事も中途半端な状態で残されてしまいます。

今は1人1パソコンが与えられ、パスワードなどセキュリティ管理されています。だが、自分が次の日に出てこられなかったらどうしよう、などと想定している人はほぼいません。私は常に、明日体調不良で出てこられなくても困らないよう念のために、周囲の人にだけ、パスワードを物理的に記載して隠している場所を伝えています。個人情報などが含まれない作業データであれば、共有のサーバーに保管しています。

ここにきて「明日が確約されないためにどうするべきか」という能力が生きるとは思いませんでした。また「明日が確約されない」ため、長期的に進めなければならない仕事は手帳や作業工程表などでどこまで進んだか、同じ係内の職員であればわかるように心がけるようにしました。心疾患との長いつきあいになるにつれ、他の病気も増えてきます。

周囲との支え合いがあるから仕事が続けられる。それは長年、感じていたことです。40歳を過ぎると体力のなさが、生活に影響が出るようになってきました。運転免許の取得制限があるため、公共交通機関利用しているのですが、人手不足等により減便・大きな迂回・時間の変更があります。長時間バスに乗る不安もあるので必然的にタクシーを使用する回数も増えてきました。

確約されていないからこそ、明日を考え続ける

今の私に必要なことは明日が確約されないことの備えです。

私が亡くなったあとに残される預金、支給される退職金そしてそれをどうするかです。遺贈したい旨を遺言書にしたためて、借りているアパートの解約、必要な手続きは死後事務委任契約が必要でしょう。あと何年働けるか、そもそもあと何年生きていられるかはわかりませんが、これからも情報を共有して生きていきたいと思います。

はとらくを通じて、心臓病への思いを届けていただいています!