公開日 2025年2月3日 最終更新日 2025年2月3日
私は先天性心疾患(両大血管右室起始症)を持って生まれてきました。現在56歳の音楽家(合唱指揮者)です。
前回の記事では、成人まで生きることは難しいと言われていた私が、18歳を迎えるまでの話を執筆いたしました。
今回は、高校を卒業後から私が音楽家として生きるようになるまでをまとめています。病気が理由で、やりたいことへの挑戦に躊躇している方へ、参考にしていただきたいです。

寄稿者:中館 伸一
東京都世田谷区在住の音楽家(合唱指揮者)。成人先天性心疾患(両大血管右室起始)の患者として病気と向き合いつつ40年以上音楽活動を続けてきた経験を活かし、音楽活動(歌うこと・演奏すること)が心身の健康に如何に良い影響を与えるものなのか?を広く世の中に伝えるべく、心新たに活動を展開している。
【目次】
- 短大時代は将来を見据えた学びと出会いの日々
- 活動の幅が一気に広がっていった20代
- 30代に訪れた人生の転機、己と向き合うきっかけとなる金言
- 若い頃の出会いは人生の栄養になる
短大時代は将来を見据えた学びと出会いの日々
音楽を志した私が入学したのは音楽短期大学の声楽科でした。
思いがけず指定校推薦もいただけた上に、短大の先には更に専門コース(2年)からディプロマ(2年)と、希望すれば6年間学べる環境も整っていたので、短大で2年間学ぶ中で自身の体調変化も見つつ、場合によって方向性が変わっても対応できる良い選択だと捉えていました。自身の将来について短大入学当初から漠然と思っていたのは「自分は歌うことだけでなく、合唱団の指揮や指導をすることも好きなので、そちらの道も考えていきたい」ということでした。
当時は合唱指揮科のようなものは音楽大学には皆無でしたので、合唱指導者になるには声楽科に進むのが一般的でした。とはいえ2年という時間はあっという間で、歌・音楽の基本・・・本当に入り口を学んだくらいでした。それでも日々充実した学びの時間であり、また同じ音楽を志す仲間や、魅力的な先生方との出会いの場でもありました。
短大の頃は体調的にも不調になることはほぼなく、片道1時間の通学も苦にはなりませんでした。電車の乗り換えも都心とは逆方面でしたので、ぎゅうぎゅうの満員電車に乗らずに済んだことも幸いでした。座ることができるか、少なくとも自分の空間が維持出来る程度の通学環境は大切だと感じます。
活動の幅が一気に広がっていった20代
あっという間の2年間、卒業後の進路選択はなかなか厳しいものがありました。
体力的なことや自分自身の中での迷いもあり、教職を取って教師を目指すのは諦めました。音楽の指導者を目指したい気持ちはありましたが、学校の先生になるイメージを持つことができませんでした。卒業後、同系列の大学専門コースに進むかどうかも迷いましたが、結局私は個人的に様々な先生方・先輩方から教えを乞う形を選びました。
尊敬する指揮者の先生が指導されている合唱団体に入団して歌ったり、練習を見学させていただいたり、コンサートの裏方のお手伝いをしたり。無理なく自分のペースで出来る限りで、多くの音楽の道を歩む先輩方との交流を図りました。その甲斐あって、卒業から3年後にはプロ合唱団のエキストラや、アマチュア合唱団の指揮指導のお仕事を少しずついただけるようになりました。
もちろん最初の頃はささやかなアルバイトといった感じで収入は苦しいものがありましたが、両親には応援してもらえたので、しばらくは甘えていました。その後も20~30代のうちは声をかけていただけるお仕事は何でもお引き受けしました。少しずつ歌う時間も指揮する時間も増え、正直かなりのハードスケジュールとなっていましたが、日々の活動に変化があり、またいくつか指導した合唱団も幅広い世代(同年代・父母世代・祖父母世代)の方々でしたので、常に新鮮な感覚で激しいストレスを感じることなく活動出来たのも幸いでした。
歌うお仕事もコンサートホールでの演奏会から、北海道から九州まで全国各地でのスクールコンサート(芸術鑑賞教室)、テレビ出演など、日々刺激的でドラマティックな活動を続けていました。国内トップレベルの演奏家・作曲家の方々との共演、各地の小中高生との交流、大河ドラマでグレゴリオ聖歌を歌った!などなど、忘れられない思い出が山ほどあります。
【目次】
- 「成人までは生きられないかもしれない」と言われていた 18歳までの人生を振り返る
- 先天性心疾患患者の私が仕事・生活するうえで気をつけていること
- 22歳当事者と親の立場から見る僧帽弁閉鎖不全症手術記録~感じていた異状と診断〜
30代に訪れた人生の転機、己と向き合うきっかけとなる金言
30代に突入してからはオーバーワークにより何度か体調不良になりました。大きなところでは「風邪をこじらせて気道から出血しひと月の間自宅療養」「痛風の発作を発症し数週間松葉杖で生活」「メニエール病を発症しひと月の間自宅療養」などありましたが、幸か不幸か入院することなく全て自宅療養で治してきました。
30歳を過ぎ、仕事もハードになりつつあったので、思い切ってプロ合唱団での活動を丸10年でひと区切りをつけ、指揮活動一本に専念することに。大きな決断でしたが、マイペースを維持するには必要な選択でありました。10年間の歌い手生活は価値ある学びの時間ともなりました。また、人生における大きな出来事としては、プロ合唱団で知り合ったピアニストと35歳の時に結婚。病気持ちということで結婚までの道のりは平坦ではありませんでしたが、お相手のご親族の皆様にもご理解いただくことが出来ました。皆様には感謝しかありません。
そして、同じ年には聖路加国際病院名誉院長の日野原重明先生(当時91歳)とのご縁もいただきました。大先輩である合唱指揮者の先生からご紹介いただき、日野原先生の講演会での合唱演奏を担当する機会をいただいたのです。日野原先生が105歳でご逝去されるまで、多くの講演会でご一緒させていただきました。ちょうど私がメニエール病から復帰した頃に開催されたコンサートで、ゲストの日野原先生に私がインタビューする企画があったのですが、その時に「死なないくらいの病気は経験すると良いですよ!」と、まるで病み上がりの自分にかけてくださった言葉のように感じたことは今でも忘れません。「病気を経験すると・・・改めて自分と向き合える。人に優しくなれる。感謝する心を持てるようになる。」と、病気をプラスに捉えていくことを学ばせていただいた日野原先生にも感謝の気持ちで一杯です。
実は日野原先生も幼少期から大学生の頃に何度か闘病生活を送られた経験があり、その時期は自宅でピアノを弾いたり、作曲したりすることが喜びだったそうで、医師になるか?音楽家になるか?を本気で悩まれたこともあるほどの音楽愛好家だったのです。日野原重明先生との貴重な出会いは、後の私の人生にも大きな影響を与えることにもなるのでした。
若い頃の出会いは人生の栄養になる
20代から30代にかけては無我夢中、がむしゃらに音楽活動をしてきましたが、このハードなスケジュールに耐えられた理由を考えてみると、≪音楽そのものに癒しや活力を与えられた≫≪日々の活動が多岐に亘っていたので、心身ともに常に新鮮な状態でいられたことでストレスを溜めずに過ごせた≫≪心地良い緊張感の中で様々な世代の多くの方々と一緒に音楽活動が出来て、毎日がとても刺激的であった≫といったところでしょうか。
病気により活動に制限がある方々も、その制限の中でも可能な限り(SNSなども活用して)仲間・友人を作り、ともに活動(交流)し、更に可能ならいくつかのコミュニティーに加わる!芸術やスポーツ、文化的な趣味を持つ!それらは何らかの助けとなるでしょう。私は周りの人との会話からエネルギーや刺激をいただくと、心身の循環が良くなり、免疫力もアップするように感じます。お医者様とも相談しながらですが、若いうちは可能な限り外に出ていけると良いですね。次回は大きな転機となった40代の入院経験を中心にお話したいと思います。