公開日 2024年11月19日 最終更新日 2024年11月19日
私は先天性心疾患(両大血管右室起始症)を持って生まれてきました。現在56歳の音楽家(合唱指揮者)です。
この歳まで音楽活動を続けて来られたことへの感謝の思いを込めて、病気とともに過ごしてきた人生を振り返ってみたいと思います。
同じ心疾患を持つ皆様やそのご家族の皆様にお読みいただき、少しでも何かしらの参考になれば幸いです。
寄稿者:中館 伸一
東京都世田谷区在住の音楽家(合唱指揮者)。成人先天性心疾患(両大血管右室起始)の患者として病気と向き合いつつ40年以上音楽活動を続けてきた経験を活かし、音楽活動(歌うこと・演奏すること)が心身の健康に如何に良い影響を与えるものなのか?を広く世の中に伝えるべく、心新たに活動を展開している。
【目次】
成人まで生きられるかわからないと、後から知った
1968年1月9日に生まれた私は心臓に問題が見つかり、すぐに検査を受けて両大血管右室起始症と診断されました。いくつかの病院で検診をして、最終的には国立小児病院で10代半ばまでお世話になりました。
当時の医療技術は現在よりもずっと低く、両親の話によると医師からは「この子が成人まで生きられる可能性はかなり低い」と言われたそうです。このことを知ったのは私が30代半ばでしたが、病気があったからこそ夫婦の絆が強くなったとも父は語ってくれました。
また、当時住んでいた地域にあった養護施設に子供を通わせる親御さんの顔を見て、たくさんの勇気を貰ったとも話してくれました。ハンディキャップを持った子供の親に悲しそうな顔をした人はおらず、むしろ目は輝きを放ち、強い意志を持っていた。「私たちがこの子を守る!」という気高い魂を持った魅力的な表情をしていて、自分たちも見習わなくてはならないと力を貰った…と。
5歳のときに国立小児病院でブラロック手術(当時の担当医からはこの名称で説明された)を受け、その後しばらくは自宅療養し、7歳になってから小学校に入学しました。この頃は虚弱体質で、自宅を出て数分歩くほどの体力も無く、自宅から一番近いという理由で私立の音楽大学附属小学校に入学、周りの方々にもご理解いただき無理なく穏やかな日々を過ごすことが出来ました。
運動会は見学、宿泊行事は全て欠席していましたが、遠足にはスタート地点までは仲間と一緒に過ごし、その後は父と別行動、ゴール地点に先回りし仲間と合流するなど、少しでも参加させていただけたことが有り難かったです。そして6年間で基礎体力がかなり向上しました。体育の授業は全て見学でしたが、日常生活は普通に過ごせるまでになりました。
音楽小学校でしたが私はピアノもヴァイオリンも習わず、音楽に関連した授業もほぼ理解出来ず、見事に劣等生でしたが、日々音楽に溢れた日常(各教室にピアノがあり、常にクラスの誰かが弾いていた)がこの先の人生に多大なる影響を与えたのです。
学校生活が送れるだけの体力が身についてきた
中学校は自宅から徒歩20分の公立中学校に進学、毎日徒歩で往復しました。体育は変わらず見学でしたが、それ以外の学校生活は普通に送ることが出来るまでの体力が付きました。
小学校時代は劣等生だった音楽の授業は周りより深く理解出来ており、この頃から「音楽って楽しいのかも?」と意識するようになりました。部活動は同じ小学校からの友人に誘われて吹奏楽部に入部、ただ管楽器は心臓に負担がかかると医師から言われたため(当時の医師は今よりずっと慎重でした。現在は心疾患があっても管楽器を演奏する方も多くいらっしゃいます。)、教師とも相談して入部当初は打楽器、夏休みくらいからはコントラバス(吹奏楽で唯一使う弦楽器)を担当し、2年生の時には部長も務めました。
日々楽器を倉庫から音楽室へ移動するため運んだり、終始座ることなく練習していたので、足腰が鍛えられて基礎体力は更に向上しました。学校生活の中では心臓病絡みで心無い言葉をかけられたこともありましたが、気の強かった私は口では負けませんでした。
誰とでも対等であろうとする性格が幸いしたのか、クラスの番長格の子達(当時は校内暴力全盛期)からはとても仲良くしてもらい、時には守ってもらうこともありました。遠足で富士山の5号目までバスで行き、周囲を散策した際に具合が悪くなってしまった時も、多くの仲間が荷物を持ってくれたり、心配してくれたり…非常に有り難かった思い出です。この時期の同世代の仲間との会話や心のコミュニケーションは、人格形成にもとても大切だったのだと振り返ってみて痛感しています。
高校は都立高校の普通科に入学、自転車通学する生徒が多くいましたが、私はバスでの通学でした。体育は引き続き見学となりましたが、中学時代から比べて更に体力も付いたようで、日々の学校生活は充実していました。
吹奏楽部が無い学校でしたが合唱部から熱心な勧誘を受け入部、後に自分の人生を左右する運命的な出会いとなりました。当初、歌うことにはあまり興味は無かったのですが、他にやれる部活も見つからずとりあえず入部した合唱部、最初の舞台はNHK全国学校音楽コンクール(通称Nコン)でした。夏休みに入ると伊豆大島で3泊4日の合宿があり、ここにも参加することが出来ました。
練習はハードでしたが有酸素運動でもある歌は身体に良く、何より上達することが嬉しく、仲間と一生懸命になって歌うことに幸せを感じました。本番など遠征する際には万が一具合が悪くなり迷惑をかけてしまうと困るので、別行動で両親と車移動し現地合流していました。
2年生の時には副部長・練習責任者・パートリーダーを兼任、仲間から必要とされた(認められた)ことも、責任感や気力・精神力を高めるために良い刺激を与えてくれたと思います。努力の甲斐あってNコンは3年生の時に東京都代表校として関東甲信越大会に出場、そこで金賞を受賞し全国大会初出場となりました。
更に2年生の終わり頃には初めて定期演奏会を開催し、仲間とともに感動の舞台を経験することが出来ました。日々歌うことで心肺機能が驚異的に高まったようで、両親からも「外から見ていても高校時代に基礎体力は格段に向上していたと思う、毎日歌っていたのが良かったんじゃないかな?」と言われました。また、部活動以外でも文化祭でバンドを組んだり、日曜日には市民吹奏楽団で活動したりと、濃厚な高校時代を過ごすことが出来ました。
【関連コラム】
18歳からの人生を考えるタイミングまでたどり着いた
5歳で手術を受けて以降、大きく体調を崩すことがありませんでしたので、中学生で検査入院をした以外、入院するほどの問題が起きなかったのは幸いでしたが、私の場合それが後に衝撃的な事実を生み出すことになりました。
部活動に明け暮れた学生時代、高3の夏に「これからどうしよう…」と将来のことを考えなくてはならないと気付き、「自分には音楽しかない、歌うこと、合唱に関わることを仕事にしたい…」と思い、音大受験することに決めました。
幸運にも合唱部が全国大会に出場したおかげで(指定校推薦)をいただき、秋には受験し、冬の始まりには合格となりました。そしていよいよ本格的に音楽と向き合う日々が始まったのです。
〜続く〜